ポールスターⅠ レッスン10 [教科書 Communication 和訳]
Revised POLESTAR English Communication I
Lesson 10 『トランクからのメッセージ』
についてです。
[PART I]
写真は、しばしばちょうどことばと同じように―ときにはことばよりもよく―メッセージを伝える。ここにあるのは、私たちに深い意味をもつ写真を遺してくれた、或る写真家の物語である。
これは、まさに第二次世界大戦が終結した後の、1945年に撮影されたものである。写真には、10歳くらいの、まっすぐ前を見てじっと立ち尽くしている少年が写っている。かれはまだ赤ん坊の弟を背中に背負っているが、赤ん坊の頭は後ろの方に向かって曲がってしまっている。一目見ると、赤ん坊はちょうど眠っているかのようである。けれども、実際には、赤ん坊はもはや生きてはいないのだ。
その写真は、ジョー・オドネルという若いアメリカ人写真家によって撮られたものである。高校卒業後、オドネルはアメリカ軍兵士となって、日本人を相手に戦うことにしたのだった。
とうとう、オドネルが最終的に日本に着くまでに、戦争は終わった。オドネルが到着したとき、彼の仕事は軍のために写真を撮影することだった。軍は、日本への戦争の影響を示す写真を撮影するよう、オドネルに言った。
オドネルはほぼ長崎と広島で働いて7ヶ月間を過ごした。レンズを通して見たものに、オドネルは衝撃を受けた。しかし、もっとも深く彼のこころを動かしたのは、その少年の映像だった。
[PART II]
彼はその写真を、長崎を貫流する川である浦上川の近くで撮影したのだった。そこには火葬場があった。それが、少年が来た理由であった。
じぶんの弟の遺体が火葬されるあいだ、唇をぎゅっと閉じて、彼は立ったままその光景を見守っていた。火が弱まったとき、少年はくるりと向きを変えて、なにも言うことなく立ち去ったのだった。
長崎では、オドネルは個人的な写真を撮影しないように言われていた。彼が撮影した写真はすべて、軍に帰属していた。けれども、じぶんで取っておいたいくらかのフィルムに300ほどのネガがあった。オドネルはフィルムにはなにもない振りをした。だから、ネガが軍に取り上げられることはなかった。
翌年、アメリカに戻ったとき、彼はネガをトランクに入れて鍵をかけた。彼が目にした光景はあまりに衝撃的なものだったので、彼はそれらを忘れてしまいたかったのだ。
[PART III]
しかしながら、彼がアメリカに戻って何年も経ってからも、戦争の記憶は彼とともにあるのだった。実のところ、記憶はどんどんはっきりとしたものになって行って、彼を悩ませ始めた。数年間苦しんだ後に、彼は過去に向き合って、トランクを開けることにした。1989年に、彼はとうとうネガを取り出したのだった。それらを見てオドネルは、核兵器の恐るべき影響を人々に示すことにじぶんの人生を使うことを決心した。
彼はまず、1990年に或る教会でじぶんの写真を見せた。それから、彼はじぶんの写真を持ってアメリカ中をまわった。その後、ヨーロッパや日本でも写真を見せたのだった。もちろん、長崎の少年の写真はそれらのなかにあった。その写真は来客にとてつもなく深い印象を与えたのである。
「歴史は繰り返すものですが、決して繰り返してはならないものもあります」と、オ2つの原子爆弾について話すなかで、オドネルは言った。アメリカには、彼の発言によって、たいへん立腹した人びともいた。
[PART IV]
2003年、長崎で出会った少年を探すために、オドネルは再び来日したのだった。オドネルはいまだに、少年の身になにが起こったのだろう、と思っていた―彼はまだ日本で生きているのだろうか、と。オドネルは少年にとても会いたいと思っていたのだが、悲しいことに、彼の願いが叶うことはなかった。
その後の人生、オドネルはさまざまな病気に苦しんだ。彼はそれが、原子爆弾が投下された直後に長崎や広島を訪れたからだ、と思った。彼が正しかったのかどうかは、定かではない。けれども、そんなことをしなければ、彼はもっと長く生きていたのかもしれない。
ジョー・オドネルは2007年8月9日―長崎が爆撃されたまさにその日―に他界した。彼が私たちに遺してくれたことばがある。「小さな丸石を池に投げ入れると、ほんの小さな波紋ができますが、ずっと見ていると、それはどんどん大きくなって行って、最後には岸にまでたどり着きます。それはいまやアメリカ沿岸にまで到達しているのです。みなさんが私の仲間になって、各々の丸石を池に投げ込んでくれるのなら、私たちは津波を起こすことになるのです―そうすれば、だれもが平和を目にし、耳にするでしょう」
意志ある者は飛べ!
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