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エレメントレッスン4 [教科書 Communication 和訳]

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  こんにちは、風間です。



 今回はエレメントレッスン4です。


 しっかりと実力をつけてください。丸暗記はだめです!!!



Part1

1945年8月6日山口彊さんは喜びと共に起きました。その日は彼にとって広島での最後の日だったのです。彼は翌日家族のいる、そして本社のある長崎に帰る予定でした。彼は広島のある会社で大きな船の設計のために3ヶ月間滞在していました。

彼に課された最後の日、彼は職場にバスで向かいました。しかし、印鑑-日本人が紙に押すのに使う印-を忘れたことに気付きました。彼は印鑑を取りに社員寮に戻り、今度は電車で会社に向かいました。

彼が駅から職場へ歩いているとき、爆撃機が飛んでいるのを、そして2つの落下傘が落ちるのを見ました。突然、すさまじい閃光があり彼は吹き飛ばされました。

 



 

Part2

それは原子爆弾でした。アメリカの爆撃機エノラゲイが山口さんのいるところから3キロしか離れていない広島の中心地近くに爆弾を落としたのでした。彼は少しの間道路上で茫然としていました。彼は意識を取り戻したとき、顔の左側と左腕にひどい痛みを感じました。

彼は空を見上げたとき、大きなキノコ雲が空高く上がるのを見ました。彼はできるだけ早くその場から離れなければならないと感じました。野原の大きな木に達したとき、周りを見ました。ほとんどの家が破壊されているのに気付きました。以前、そのようなものは見たことがありませんでした。

お昼頃、同僚に会うために職場に向かうと決めました。彼が到着したとき、たくさんの損害を受けた家を見ました。しかし、生存者たちが出てきて、彼に抱きつきました。

 

 

Part3

山口さんは避難所で一晩過ごした後、その日の午後、生存者たちの為の列車が己斐(こい)駅から長崎に向けて出発すると聞きました。市の反対側の駅まで歩き、何とか席を取ることができました。翌日列車が長崎に到着した後、病院でやけどの治療を受けました。

8月9日、彼は長崎の職場に戻りました。顔の左側と左腕は包帯で厚く覆われていました。同僚全員がやってきて、広島で起きた惨事についてとても聞きたがっていました。彼がたった一つの爆弾が広島を破壊したと言ったとき、彼の上司はありえないと言いました。

突然、大きな閃光が部屋を覆いました。山口は生きて長崎に帰ってきましたが、そこで二度目の原子爆弾を経験したのでした。

 

Part4

山口さんは二度の原子爆弾の攻撃を生き延びました。他の多くの生存者たちと同じように彼は人生の大半、苦悩の中にいました。しかしながら、彼の息子が爆弾に関連した癌で60歳で亡くなった後、山口さんは公の場で彼自身が経験した苦しみについて話し始めました。彼はそうすることが彼の任務であると信じていました。彼の経験を本に書きました。生存者についての映画にも出演しました。90歳のとき、彼はニューヨークの国連で演説さえもしました。「私は二度爆弾を経験しました。三回目がないことを強く望んでいます。」

彼はまた、アメリカ合衆国のオバマ大統領がプラハで演説し、核兵器のない平和のために取り組むことを約束した後、オバマ大統領宛に手紙を送りました。その手紙には「私はあなたのプラハでの演説に大変感動しました。私も残りの人生を世界に核兵器を保有しないように伝えながら過ごしていきます。」と書いてありました。

山口さんはかつて将来に希望を感じているか聞かれました。少し時間をおいて、彼は「将来に希望を持っています。愛と人間を信じていますから。」

彼は亡くなるその年に、「私は任務を果たしました。」とも言いました。2週間後、山口さんは静かに息を引き取りました。93歳でした。彼の願いは我々全員の中にあり続けます。

意志ある者は飛べ!

 

 




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