クラウンⅠ レッスン4 [教科書 Communication 和訳]
CROWN CommunicationⅠ ~Lesson4~ 和訳
最初の数コードを聴いた後、誰もそのピアニストが全盲であるとは気づか
なかった。人々はただ彼の音楽に耳を傾けていた。「私は人々に、たまた
ま全盲である単なるひとりのピアニストとして、私(の音楽)に耳を傾け
てもらいたい。」と彼は言う。そのピアニストとは、辻井伸行である。彼
の友人は彼をノブと呼ぶ。
①ノブの両親は彼らの息子が全盲であるとわかったとき、とても悲しんだ。
しかし、彼らはすぐに彼が特別な才能をもっていると知った。ノブが2歳の
とき、彼は母親が『ジングルベル』を歌うのを聞いた。数分後、彼はその曲
を自分のおもちゃのピアノで演奏して彼女を驚かせた。
ノブが4歳でピアノのレッスンを受け始めるとすぐに、彼はその記憶力で
先生を驚かせた。ノブは手で触れることによって(点字)楽譜を読むこと
ができるのだが、彼は耳で聞き覚えることを好む。彼は彼のために録音さ
れたテープを聞き、そして(彼が)聞いたものを覚える。
ピアノはノブがこよなく愛するものだ。彼はとくにドビュッシー、ショパ
ン、そしてベートーヴェンを好んでいる。彼はジャズを演奏し、そして一度、
ポピュラー音楽のミュージシャン、スティーヴィー・ワンダーに会う機会があ
った。彼もまた生まれながらの全盲なのだ。
②ノブが二十歳のとき、彼は世界でもっとも有名なコンクールのひとつ、
ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールに参加することを決意した。
それは四年に一度、テキサスで開催される。このイベントは彼の人生で重
要な転機となった。ノブと彼の母親はテキサスへ飛んだ。彼らはアメリカ
人のホストファミリーである、デイヴィッドソン一家に会った。彼らはノ
ブと彼の母親を温かく迎え、そして彼らがくつろげるように最善を尽くし
た。彼らはノブと母親のために日本の炊飯器まで用意した。
コンクールがおこなわれた3週間の間、ノブは毎日何時間も練習した。
彼がピアノを弾いていると、その美しい音楽はデイヴィッドソン夫人に
涙を流させた。「彼が演奏するのを聞くと、私はよく泣く」と彼女は言
った。近所の人たちまでノブの音楽が大好きだった。彼らはデイヴィッ
ドソン一家に家のドアや窓を開けっ放しにしておくように頼んだ。彼ら
はノブが練習するのを毎朝聞きたかったのだ。
③賞を授与する日がやってきた。ノブは6人の決勝進出者の中にいた。
優勝者に与えられる賞は、賞金2万ドルと、若い音楽家ならだれもが見
る夢、世界中をコンサートツアーしてまわるという機会であった。発
表がおこなわれている間、だれもが期待を胸に待った。
まず、準優勝者の名前が呼ばれた。ノブのもっとも親しい友人のひと
りになった韓国のピアニストだった。そして次に優勝者が発表された。
19歳の中国人のピアニストだった。ノブは自分が負けたと思った、しか
し、それでも決勝戦出場者のうちのひとりになることができて幸せだと
感じた。彼はオーケストラといっしょにふたつの協奏曲を演奏すること
ができた。彼は優勝者ではなかった、しかし彼はそれでも幸せだった。
その時、驚くべきことが起こった。ノブの名前が呼ばれたのである。
優勝者はふたりいた。ノブと中国人ピアニストの両方が金メダルを受け
取った。ヴァン・クライバーンはステージの上でノブを抱きしめた。ノ
ブの目から涙が流れた。それは彼の家族、先生方、そして友人たちの助
力と支援に対する感謝の涙であった。ノブはその人たちを見ることはで
きなかったが、彼はこう言う。「私は心の目で彼らを見ることができる
のです。」
④ノブは他の人達と音楽の美しさや楽しさを共有したいと考えている。
彼は東日本大震災に心を動かされ、犠牲者のための哀歌を書いた。彼は
まず最初にそれを2011年3月31日にコロラド州のボールダーで演奏した。
彼は人々がアンコールを求めるとそれを演奏する。また、彼は津波を切
り抜けたピアノでそれを演奏した。それは押し流されたものだったが、
後に発見され修繕されたものだった。
ノブはこう言う。「私は音楽の力を信じている。誰しもが音楽という言
葉を理解することができるのだ。私がやりたいことは、人々に決して諦め
ないように伝えることなのだ。もしかしたら、私の音楽が、人々が少しで
もより力強さを感じてもらえる手助けになるかもしれない。」
ノブと何人かの福島の高校生が「花は咲く」という曲を録った。それは
大災害の犠牲者のためのチャリティソングである。生徒たちは大変な苦し
みを負ってきた。そのピアニスト(ノブ)は彼らの苦しみを心の目で見る
ことができた。彼らは自分たちの悲しみや勇気、そして未来への希望を表
現するために、1つの曲に集ったのだ。
意志ある者は飛べ!!
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